建設業界の商習慣の歴史と現状1(逆算プランニングその4)

今回から2回に分けて、戦前から現在における家づくりの体制・システムの変遷について書きます。

ざっくりと言い換えるならば、家という商品(この側面を軽んじてはならないと思います)をどのような店構えでどんな包装紙で包むのか、その歴史と変遷についての話です。

戦前までは建築のことを普請(ふしん)と呼んでいました。本来この言葉は、家づくりのみならず、その地域の公共社会基盤を地域住民でつくり維持していく事を指したのだそうです。建築主は「旦那」と呼ばれ、出来高報酬制で各専門工事業者を雇い入れ、現場は大工棟梁の采配に任せるスタイルでした。

戦前の住宅着工件数は資料をさがしたけれど残念ながら見つからず、直近の1946(昭和21)年で約30万戸/年でした。当時は建築確認制度はまだなく、市街地建築物法にもとづく警察からの許可制だったようです。

現在の家づくりの主流は、発注者(建築主さん)から工事を一括に請け負い、完成・引渡しをするスタイルです。

一括請負者は、建築主さんから「家づくりに関する費用」の支払いを受けて、そのお金で材料と各専門工事業者の手配、現場の品質管理、工程調整に伴うコストと自社の運営費を賄います。このような仕事は総合建設業、または工務店ともよばれます。社内に設計事務所を構えて、自社設計をおこなうところも多いです。

家づくりにおいてこのやりかたが整ったのは、戦後まもなくの1950年(昭和25年)頃だといわれています。

サンフランシスコ講和条約締結を翌年に控え、ちょうどこの年に建築基準法、建築士法、住宅金融公庫法が制定されて、戦前の普請的な手法ではない、つまり「旦那」として工事に臨まないで注文住宅を建てたいという新しい顧客層の要望を満たすためのパッケージとして、棟梁をお抱えにしなくてもよく、あらかじめ総額が明示されて公庫融資が可能であり、ひとつの窓口にお金を支払えば家が完成する、あたらしいシステムである一括請負方式は誕生しました。

社会的・文化的貢献という側面と併せて考えるべきことがらなのでしょうが、ともすれば特定の階層による趣味、やや意地悪に言えば道楽の要素を否定できない「普請」を私たち一般人にも手の届くものとした一括請負方式の誕生は、当時からすれば革命的なシステム変更だったのではないかと想像します。

その後の住宅着工件数は、爆発的ともいえる右肩上がりの増加を続けてゆきます。そして、すべての都道府県において住宅数が世帯数を上回った23年後の1973(昭和48)年に190万戸/年にまで達し、ピークを迎えました。

分離発注方式は、いまから20年ほど前、1990年代の初めごろに本格的な普及がはじまったと言われています。

総合建設業者を介さず、建築主が直接に各専門工事業者と個別の請負契約を結び、

・設計積算、
・仕様と工事費の検討、
・見積集計、
・契約書式の整備、
・公的申請、
・工事マネジメント

を建築設計事務所の建築士がおこなうスタイルです。各専門工事業者への工事費、建築設計事務所への業務を個別に「分離して発注」することがその名称の由来です。

1973年(昭和48)年にピークに達した住宅着工件数は、以降はゆるやかに減少を続け、先ごろ発表された2013(平成25)年の統計は、98万戸/年でした。

次回、これらの3つの手法である、

・普請
・一括請負方式
・分離発注方式

それぞれの特徴を長所、短所に分けて紹介します。

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