分離発注ってなんだろう?その1

弊社の主な業務は、「住宅の設計と分離発注方式による現場のマネジメント」です。

設計については過去2回のブログのとおりの、ごくごく一般的な設計業務です。では着工後、いったいどんなふうに現場が進んでゆくのか、イメージが沸きますか??

弊社HPの 「FAQ」 のA1にて、「オープンシステム(分離発注)の総本山である㈱イエヒトさんの解説がわかりやすいので、どうぞそちらをご覧ください」と書いてその責任を果たしたつもりになっていたのですが先日、自分の言葉でもちゃんと説明しなさいとお叱りを受けました(>_<)

というわけで今回は分離発注ってなんだろうと、あらためて整理したことについて書きます。とはいえ経験が土台の話なので、体系的でなかったり教科書とのズレが出たりしそうですが、実話に免じてその点はどうぞご容赦ください。(追記:今回から数回に分けて掲載します)

まずは現場の様子について書きます。

現場は職人さんたちが腕を振るい、現場監督(的な役割のコンストラクションマネージャー)が各職方間の工程調整や仕様・納まりの確認、施工精度の管理や資材の発注などをおこないながら、基礎ができ構造体が組みあがり屋根ができて壁ができて少しずつ完成に近づいてゆく、一般的な住宅の建築工事現場そのものです。

分離発注であることとは関係なしに「建築の作法」に従って、ヒトとモノと時間が流れてゆきます。

では、いったい何が異なるのか?

今回がよい機会だからとあらためて考えてみたのですが、現場をふくめた業務全般について、分離発注が一般的な形態とはあきらかに異なる点がふたつありました。

ひとつめはお金の流れかたが違う。分離発注方式の工事代金は、大工さん左官屋さん板金屋さんなどの職人さんたち、各専門工事業者にクライアントさんから現金で直接支払われます(設計と工事マネジメントには業務委託契約に基づいたフィーが別途支払われます)。

個別に分けて発注の対価として支払われるから、その名のとおりに分離発注方式です。もうひとつは、最初から最後まで、一貫して専任の建築士がクライアントさんをサポートすること。

ご相談、プランニング、設計、現場のマネジメントをおこないながらクライアントさんの「直接の」窓口になり続けることは、いってみれば棟梁の采配とおなじです。分離発注に限ったことがらではありませんが昨今ではどちらかといえば少数派、というか希少種です。

諸説あるのですが、大量生産に向かないことがおおきな理由だといわれています、ですがこの先、「大量生産をしたい理由」はともかく、「大量生産しなければならない理由」がこのまま温存され続けるとはどうにも思えません。

ふたつの違いが実務上ではどのような特徴となってあらわれるのか?

家づくりのスタートからから完成までのあいだ、建築主(クライアントさん)、設計者、工事管理者、施工者(専門工事業者)、それぞれの視点からどう映るのかを次回、検証してみます。

実施設計、積算・見積

前回からの続き、模型での検討を終えた次の工程、実施設計と、積算・見積について書きます。

実施設計とは、演劇に喩えるならば脚本(基本設計)と本番(着工)のあいだの通し稽古みたいなもので、実際にどのような材料をどのように組み合わせるのか、形状や寸法や数量、仕様を具体的に組み合わせてみて、現実の施工を見据えた検討をおこない決定してゆきます。

家づくりをオーダーメイドと捉えた場合の金額の根拠をここでつくる、という言い方もできるかもしれません。

それらを紙にまとめたものが実施設計図書で、今回は48枚になりました。

内訳は、内容を主に文字によってあらわす仕様書が3枚と、

基本設計時点で描いた図面に具体的で詳細な仕様とそれぞれの寸法を反映させた平面・断面詳細図など、その部分がどのように見えるかを詳しくあらわす意匠図が35枚、

柱や梁や土台、基礎など、建物の骨組みをあらわす構造図が5枚、

コンセントやスイッチや照明器具、水道などの位置や仕様、配線(管)系統をあらわす設備図が5枚の、

仕様書3枚プラス図面の45枚に目次と表紙をあわせて合計で50枚です。

実際の業務ではこの図面をもとにして、積算作業(数量の拾い出し:原則設計者がおこなう)と、見積依頼(各専門工事業者さんにお願いする)と集計を経て具体的な予算がはじきだされます。

今回、計画案とはいえ、ひととおり図面がそろったので、専門工事業者さんにお願いして見積を作っていただきました(ありがとうございました)。全体の集計作業も、もうまもなく完了です。

分離発注としてはおよそ5年ぶりの積算・見積だったのですが、この5年のあいだで、ウェブを活用した物流、情報伝達の効率化と参入障壁の縮小は予想以上に進んでいるな、というのがいまのところの感想です。

正直、やや軽いショックを受けています。

建築模型


基本設計の作図のなかで、立面図を描くのがいちばん好きです。

平面計画と同時進行で想定している、全体の高さやボリュームや屋根の形状を含めたプロポーションなどがはじめて具体的なかたちをあらわす瞬間で、そこまでの検討が適切だったのか、決定的なほどによく見えます。

平面計画にも言えることなのですが、門や塀、駐車場などの外構計画もこの時点である程度具体的に決めておくと、動線や予算組みなど後々の計画全体がスムーズに進行してゆくようです。

とはいえこれもまだ「紙の上」の話、質感も奥行きありません。
この次は配置図・平面図・立面図をもとに建築模型を作製して、さらなる検討に進みます。

外壁や軒裏にどのように光が当たり影ができるのか、物置や塀、扉で囲まれたそれぞれは「空間」になり得るのか、植栽の配置は適切か、建物内部へ自然光はきちんと届いているか、通風は取れるかなど、東西南北の各方向からはもちろん、下から見上げたり屋根や床を外して内部を確認したりも可能です。

窓から覗いて室内のようすを伺うのはさながら、小人の国に迷い込んだガリバーにでもなった気分です。

リアルな質感から得られる「見た感じ」のフィーリングというのは文字通りに一目瞭然で、ダイレクトに伝わってきます。

一見効率が悪いようにも思われがちなのですが、これは私が知る限り、ある種のチェックポイントを通過するためのもっとも確実で早い検討方法のひとつです。

このプランでは1階水まわりへの採光の量がすこし気がかりだったのですが、どうやらこのままで大丈夫なようです。

間口10.9メートル奥行き6.7メートルのこの住宅は、ふたつの寝室とセカンドリビングを2階に設えて、それが吹き抜けを介して1階へとつながります。

サービスヤードを含めて約43坪のプランは、4人家族想定の老後も無理なくつかえる計画を、と思い立って書き下ろした計画案です。

次回はこの計画案の実施設計図書と積算・見積について書いてみます。

春がきた!

本格的にあたたかくなって、風の肌ざわりも変わってきたようです。とはいえ、暑さ寒さも彼岸までのとおり、まだもうしばらくは寒かったりするのでしょうか。

「しかし暦をつくった昔の人はエラいよなあ」と、春秋分を前にすると必ずこのマントラを唱えているような気がします。

前回のブログで、「スプリング ハズ カム」について自説を訴えましたが、実際のところどうなんだろうと、あのあとネットなどであらためて調べてみました。がしかし、もうひとつピンときません。それならばもう専門家を尋ねるしかないと、以前にご自宅を設計(とCMによる施工マネジメント)させていただいた翻訳家の方に、おそれながらも自説を展開してお伺いをたててきました。今回はそのご報告です。

米国留学と英国駐在を経て、現在は米子市で翻訳家としてご活躍のS様、完成して4年半を過ぎたお住まいの庭には造園家の奥様による植栽が映えて、これから夏にかけてがいっそうきれいです。庭と建物の様子は見たかったものの、ご多忙の最中にこの質問を携えての訪問はさすがに腰が引け、拙い文章を添えてメールでのお伺いとしました。

翌日いただいた返信に、春の到来を喜ぶ気持ちが発端であるかどうかはわからないけれど、英語にかぎらず、北極圏やハワイや中国など、さまざまな国や文化圏でそれぞれに応じて必要な表現が工夫されてきて、そうした先人の苦労の跡のひとつが「ハズ」なのだろう(用いなければ日本語の「春が来た」は英語ではあらわせないのだそうです)、との見解をいただきました。

イヌイットたちには雪をあらわす言葉がたくさんあって、同じ英語圏でも天気予報の雨の表現は、アメリカよりも、たくさん雨の降るイギリスのほうが凝っていたような気がするなあとのことで、日本語も雨の表現は多彩ですよねとも添えてありました。なるほど。

中学英語の質問を、異なる言葉と文化と気候風土の違いを交えながらお答えくださって、単語と文法に視野狭窄していたところから、それが世界全体の中のどこに位置して何を意味しているのかを知ることができたというか、1の質問が10の価値になって戻ってきたというか、こんなふうに教わっていたなら私の英語の成績ももっと良かったろうにと一瞬嘆きましたがそのあとすぐ、教わる側に問題があった過去もしっかりと思い出しました。

この経験を専門技術職の端くれとして心に留めて、業務上にいただいたご質問によりよい答えを導き出せるよう、技術・知識・経験の習得、それと適切な視点への切り替えが出来るよう精進いたします。

S様、ありがとうございました。

春がきた?

あいにくの雨と風ですが、この二日よく晴れて、今日の強い風は春一番だったのでしょうか。今朝、大発見をしたので、そのことについて書きます。

春が来たことを英語で”Spring has come “と言うのだよ、と、その昔中学校で習いました。けれど中学生の私には、スプリングとカムのあいだにどうしてハズがやってくるのか、どうしてもわからなくて、単語の意味的には真ん中は抜いても通じるだろうに、なぜそんな余計なハズなんか付けるんだろう?その頃はそんなふうに思っていたはずです。

たしか現在完了形とよばれる時制で「ちょうどいま~をしたところだ」といったふうの日本語訳がつけられて、現在に完了したさまをあらわすものだと教えられました。

けれど、普段の日本語の生活と、海外旅行程度の異国での滞在の中ではそのような表現にふれることもなく、それらの疑問は意識の底のほうに沈んでしまっていたようです。伝えたいと受け取りたいがお互いにあれば、国の内外を問わずコミュニケーションはとれるという実感は、長じるほどに次第に増してゆきました。

で、今朝、なぜか今朝なのですが、昨日おとといと続いた晴天と朝の緩んだ気温に少し浮き立つような気持ちになっていて、そこに天からの采配とでもいうべき何かが、そうした浮き立つ気持ちとhasとを結びつけてくれたというか、意識の底から引っ張りあげてくれて、30年来の疑問に、ある気づきを与えてくれました。

「ただ春の到来が、ただただうれしいから、 このきもちを何とかして伝えたいとおもったときに、たまたま使ってみたのがhasだった。なによりもとにかくうれしかった。」

そう考えると身体の中の納まりがよいというか、すとんと腑に落ちました。英語を話すひとたちの、春をよろこぶ気持ちに自分が重なることができたといえばすこし大袈裟でしょうが、雨が降り続いているにもかかわらず、すっきり晴れやかな気分です(まだ仮説ですが)。
明日は雪の予報ですが、まちがいなくもうすぐ春です。

ところで今風に意訳したら”Spring has come “、
「春が来たぜえ~」くらいになるのでしょうか(もう古いのか?)。
(渡辺)