山陰は長かった。

前々回のブログ では、境港から車で東へ2時間半ほど走った先の、まだ雪の残る兵庫県北部、美方郡新温泉町にうかがった様子をご紹介しましたが、今回は、その兵庫行きから間を空けずに西へ向かった、島根県西部の浜田市(境港から車で約3時間)での様子をご紹介します。

ご依頼いただいた業務を終え、帰路に就いてしばらくすると左手に「石見(いわみ)海浜公園」の看板が目に留まりました。ちょうどよい時間だったので、昼休憩を兼ねて看板に誘われるまま、駐車場に車を停めて海浜公園内へ足を進めてみると、そこには・・・

透き通る青空、春の色になった海面、そして

白い砂浜の三点セットで構成された、見事なまでの「春の海」が広がっていました。

浜田市は、廃藩置県以前には「石見の国(島根県大田市 / 出雲市を境にして、出雲市以東が『出雲の国』)」と呼ばれた地域ですが、緑よりも岩肌が目立つ半島の景色は、境港で目にする島根半島の、豊かな木々や季節の花などに比べると、同じ山陰とはいえ随分違うものです。そうした違いにも感心しつつ、しばらく海風に吹かれながら過ごして、図らずも心地よい昼休憩になりました。

数年前にお邪魔した際には4時間近くかかった、浜田市までの道程でしたが、高規格道路の整備が進み、(個人的に「走りにくいなあ」と感じる区間を一般道に切り替えたルート設定であっても)片道で約1時間ほど短縮することができました。これは想像以上の負担減でした。

前々回ブログの兵庫県北部から今回の島根県西部まで、同じ春の空の下でも、積もる残雪から春の海までの「振れ幅」を持つ山陰は、長いです。

鳥取県版構造計画ガイドライン(案)

先日、鳥取県主催の「鳥取県版構造計画ガイドライン(案)」説明会に参加しました。

ガイドライン案は、「戸建て住宅において、一般に流通している部材で、経済的で高い耐震性能を確保する」ための、6つの構造計画のルールにより構成されています。

この6つのルール、説明会前半での「はじめの1から5」の解説では、凡そ一般的・堅実なお話が続いた(来月改正となる建築基準法を補完する意味では、大変意義深い内容でした)のですが、その後の説明会後半、「6つ目」のルールであるスケルトン・インフィルの、実践例のご紹介とご説明には、なるほどその手があったかと、一気に眠気が吹き飛びました^^;

やや大仰ですが、これ(スケルトン・インフィル)は、ここから先、たとえば今から10数年後に振り返えると、ひょっとすると木造住宅の「構造のあたらしいスタンダードのひとつ」になっているかもしれません。

大工さんの創意工夫から生まれた実践例に対して、その考え方を私たち設計者が活かす方法、具体的には基本・実施設計段階での室の区切り方や部材配置について、あらためて考えるための非常によい機会になりました。

山陰は広かった。

ここのところ、戻ってきた寒さにあわせた重ね着が続く境港ですが、それでも残雪はすっかりなくなって、そして、日の出から日の入りまでの時間もかなり伸びて、春が遠くないことを感じます。自宅庭の蝋梅も、今年も小さいながら、たくさんの花が咲いてくれました。

今日は、その境港から東へ2時間半ほど(車で)移動した際の様子をご紹介します。先日、鳥取県のお隣に位置する、兵庫県美方郡新温泉町に伺いました。

空の青さはまさに今の時期のそれだったのですが、

融けずに残った雪のボリュームは、

今が何月なのか、よくわからなくなるほどの分量でした^^;

鳥取市内では、境港と何ら変わらない様子だったのですが、鳥取県の最東端である(岩美郡)岩美町を抜けたあたりから徐々に白いものが目立って、新温泉町までの道中の景色には、残雪の高さと広さにただただ圧倒されました。が、なんというか、風情を感じる、ここちのよい圧倒でもありました。

この10年ほどで、高規格道路の整備がかなり進んだ山陰地方ですが、2時間半の間にこれだけの変化に富むとは、いや、山陰は広く、そして深いです。

小屋裏(と床下)探検記2025

これまでを振り返ると、床下や小屋(天井)裏に入る機会には、割と多く「恵まれて^^」きたようです。先日も築後約30年のお宅に伺ったのですが、今回はその様子をご紹介します(ブログでのご紹介は、調べてみたら 約10年ぶり でした)。

伝統的な 和小屋(わ-ごや) で構成された小屋裏空間です。この空間が「遮熱層」となって、

夏場の日射による輻射熱が室内に伝わることを断熱材(上の写真の下部に見える、白い布団のような一団)とともに防いでいる様子を確認できます。小屋組への水平力を支える、小屋筋交いもバランスよく配されています。

床下に移動すると、断熱方法はいわゆる「床断熱(この年代では最も一般的です)」であることがわかりました。根太(ねだ)の間に納められている、「白い板状」が断熱材なのですが、よく見ると、断熱材の落下防止のために、野地板(上の写真の右上の板材)が張られていました。「30年前はこのような納め方もあったのだなあ」※と、当時の現場の皆さんの工夫の跡を知る、よい機会にもなりました。

※現在では、専用の金具(ピン)を用いたり、断熱材自体が「耳付き」となっていて落下防止の機能を備えていたり、そもそも床に断熱材を配置せず、「基礎断熱」とするなど、いろいろな手法があります。

「昭和100年」の建築基準法

2025年の今年は、ふたつ前の元号を起点にすると、「昭和100年」にあたるのだそうです。4月に建築基準法の改正(施行=実際の運用)が控えていますが、サンフランシスコ講和条約調印を翌年に控えた昭和25年5月24日に制定された建築基準法は、あと半年ほどで「75歳」を迎えます。

今回の改正は、 一年前の当ブログ でも触れたように、住宅が主な対象である「小規模木造建築物」においては、建物重量の算定や柱断面、耐力壁(準耐力壁)などの項目について、これまでに比べて、より個別の事例に沿った詳細な検討ができるよう、アップデートされます。

また、耐震改修工事を伴うリフォーム・リノベーション工事については、(平屋建ての一部を除いて)新築工事と同様、着工前には上に記した検討に対しての、行政庁または指定検査機関による「確認済み」が必須となります。

加えて続けると、耐震改修計画において、壁内や天井裏などに隠れている柱、梁、土台や筋交いの配置や、あるいは基礎鉄筋の有無についての調査・確認は、その建物の設計図書の照会と建築年代からの類推に併せた、(上の写真のような)調査機器による現地での実測が有効です。

柱、梁、土台や筋交いなどの構造部における、建築基準法改正の変遷について、大掴みには、

・旧耐震(新耐震基準以前):~1981年5月31日
・新耐震基準:1981年6月1日~2000年5月31日
・2000年基準:2000年6月1日~現在

と分けるのが一般的ですが、基礎について言えば、住宅の基礎に鉄筋が「必ず」必要である、と法に謳われたのは実は割と最近で、2000年(平成12年)の改正時です。それ以前を遡ると、1971年(昭和46年)に「基礎が、一体のコンクリート造または鉄筋コンクリート造の 布基礎 とすること」と定められており、これは十勝沖地震での教訓から学んだ改正であったようです。

とはいえ、では例えば1990年代に建てられた住宅の、基礎の主流は「無筋」であったのかと自身の記憶を辿ってみたのですが、当時、私が目にした住宅の基礎は、そのすべてが鉄筋コンクリート造でした。今回、あらためて調べて知ったのですが、1980年(昭和55年)に住宅金融公庫(現在の住宅金融支援機構)の仕様に「鉄筋コンクリート基礎」が追加されたことにより、法令の未整備が実質的に補われていたようです。